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2011年3月3日木曜日

愛とは、向き合うのでなく、同じ方を向くこと (か?)  北山修編『共視論』読書レビュー

こんにちは。モチベーション・メーカー サポーターの山田聰です。

今日は一冊、本をご紹介したいと思います。

いま、モチベーション・メーカーは、「コミュニケーション」をテーマにした
とあるワークショップをお手伝いさせていただいていて、
参加者のみなさんがフィールドワーク(訪問観察や同行観察、インタビュー等)を
なさるのをサポートさせていただいているのですが、
そのフィールドワークから、次のような気づきが出てきました。

ふつう(会議室の中だけとかで考えていると)、
「ある人Aとある人Bのコミュニケーション」と言うと、

A →← B

という、向き合って対話や情報交換をしているイメージを抱きがちだけれど、
実際に同行観察などで人がコミュニケートしている様子を見てみると、

A→→

 
B→

という、共通の対象に向かって、並んで同じ方を向いている、
そんなふうにイメージ化できる行動がけっこう多く、
それは大きな意味を持っているんじゃあないか。
(特にこのワークショップ/フィールドワークが対象としている層においては。)

たとえば親子でテレビのアニメ番組を観てそれをネタに会話をするとか、
たとえば恋人同士で花火大会を観に行って並んで時間を過ごすとか。

コミュニケーションは、
よく「キャッチボール」に例えられますが、
意外と「スカッシュ」なんじゃないか。

と、このようなイメージについて話していたところ、
モチベーション・メーカーのアドバイザーでもある田村大さんから
次のような書籍を紹介されました。

北山修編 『共視論 母子像の心理学』 講談社選書メチエ 2005

浮世絵に描かれた、
蛍、花火、しゃぼん玉などを並んで眺める母子の絵、“共視母子像”を
コミュニケーションや日本文化、あるいは発達心理学、精神病理学など
さまざまな切り口から読み解き、洞察を広げていく論文集で、
読むと私たちの気づきについてもより深く考えられるのでは?とのこと。

そこでさっそく取り寄せて、読んでみました。

共同研究プロジェクトを基にした、8本の論文からなる論文集で、
文章もけっこう学術的で、ちょっと難しいんですが、
今回のワークショップにも、モチベーション・メーカーの活動にも、
いろいろと考えさせられそうなヒントが満載だったので、
そうしたヒントをザッピング的にピックアップして紹介していこうと思います。

(8本の論文を体系化してサマリーを書く筆力はなく・・・)



◆浮世絵の母子の約半数は、「共視」をしている

母子が描かれた浮世絵213枚を集め、その描かれ方を調べてみると、
その約半数が、何かを共に眺めるなど、
母子が何かを媒介にして関係を保っていること=「共視」を描いた絵だったそうです。
(「密着」を描いたものが約六分の一、「対面」「無関係」がそれぞれ約1割といった具合。)

西洋の絵画では(多くが聖母子像であり描かれた背景が異なるということですが)、
この「共視」を描いたものは5%程度すぎないそう。(アジアには多い。)
自己と他者が「並ぶ」関係をつくって、自分が関心をもったモノを他者と共同化し、同じものを並んで共に眺める行為 (p82)
という、「共視」と名づけられたこの行為が、私たち日本人の親子関係や
コミュニケーションにどんな意味を持っているのだろうか?
というところが、以降いろいろと語られていきます。



◆間をひらきつつ、間をとりもつ / 半依存・半自律 / 豊かな連帯

蛍やしゃぼん玉といった「共視」の対象となるものは、
「親子の間をひらいて間接化しつつ、同時に間を取りもって繋いでいる」のだといいます。
親子がぴったりとくっついている切っても切れない関係からちょっと離れ、
外の世界にあるものに触れ、それを媒介にしてつながっているのだそうです。

こうした「共視」的なコミュニケーションは
「養育者に対する絶対的依存状態からの部分的脱却を意味する」といいます。
共視的な行為は、「子どもの側の能動性あるいは“自己”」があればこその行為であり、
こうした行為をしている子どもは「半依存・半自律」の状態にある、のだそうです。
もちろん親に頼っているのだけれど、しかしある程度は自立して、
自分の目や体で外の世界に立ち向かっているということですね。

そして、このような母子は、
単に共視の対象によって結ばれているというだけでなく
境界線というような細い線ではなく、豊かな文化で埋められる可能性のある、広がりのある境界帯というべき領域 (p15)
を共有していることになる、といいます。



◆共視の対象 現世利益の中国、浮き世は儚い日本

日本と中国では、同じように「共視」の絵がさかんに描かれていますが
その眺めている対象を比べると、両国の違いもあるそうです。

中国の蘇州版画というものを調べてみると、
共視の対象には、折ったキンモクセイの枝
(折桂と言い、科挙=試験に受かることを意味する)や
聚宝盆(無限の財宝を生み出す打出の小槌のようなもの)など、
教育的・招福的なものが多く見られるそうです。

いっぽう、日本では、蛍や花火、しゃぼん玉、桜など、
面白いがやがて浮かんで消える「はかない」ものが多いそう。
いわく、物見遊山の日本文化のなかで、日本人は
肩を並べてこのようなはかない対象を眺めることが好きであり、
人生がどこか不安定にゆらぎ出ては消える「浮き世」であることを
母子関係のなかからも体得しているのだ、とか。
いわく、そこには、いつかは成長し、赤ん坊のときのような
ぴったりとつながっているという感覚を失ってしまう、
母子の関係の「うつろいやすさ」が暗示されているのだ、とか。



◆共視を「取り囲む」空間、「取り囲む」コミュニティ / 共有された「場」で文化が生まれ育つ

共視母子像には、傘や蚊帳、夕顔棚などといった
母子を外界と隔てる「バリア」を設定しているものも多く見られるそうです。
絵の中の空間の、さらにその中に子どもを取り囲む空間を設定している、
入れ子構造をとっているものがみられる、とのこと。

また、人々やコミュニティも母子を取り囲んでいます。
船の上で花火だ、花火だと喜ぶ少し年長の子どもを母親的な人物が抱え、
船頭さんがこれを支え、静かな川の流れや共同体の和がこれを包んでいる。
子どもを中心にして取り囲む抱える構造なくして、こういう遊びは成立しない。(p62)
「子どもを中心にして取り囲み抱える場」というイメージが、
日本文化における、母子の暮らす空間や共同体のありよう (現実にそれが
達成されていたかはともかくとして、望むべき場のありよう) であった、そうなのです。

また、江戸の芝居空間(舞台と観客の区別が曖昧で、舞台上に客席もある)や
俳諧連句の「座」、狂歌の「連」、和歌の「宴」や「歌合せ」などの
前近代の日本の創作物が生まれる空間を見てみると、日本文化は、
「一方が一方を見る・観るという対面の関係で作品が創作される文化」ではなく、
「あるひとつの場を共有することで、そこに何かが生まれ育つ文化」なのではないか。
そうした文化創造の環境も、共視母子像には反映されているのではないか、というのです。



◆共視の会話は、対決ではなく共鳴

「共視」の構図は、日本的カメラワークとして小津安二郎の映画にも引き継がれているそうで、
「正面から向き合ってお互いをみつめることよりも、ふたり並んで同じ方向に視線を向け、
同じひとつの対象を瞳でまさぐることが、より直接的な交感の瞬間を形作る」
と評されているそうです。

「共視」の場での会話にも特徴があるといいます。
小津安二郎の『東京物語』で老夫婦が海を並んでみながらする、
「そろそろ帰ろうか?」
「もう帰りたいんじゃないですか?」
「お前が帰りたいんじゃろ」
「もう帰るか」
「帰りますか」
という会話を例にとり、共視の場の会話は「かさねの語り」である。
主体と客体が対面的に対峙してやりとりする「対話的語り」ではなく
共鳴的にうたうようにリフレインされ響きあう「共存的語り」なのである、といいます。

対面・対話の場では、自己の声と他者の声は対峙して闘うものとなりますが、
共視・共存の場では、自己の声と他者の声は共鳴的に重ねられ、
ズレのあるくりかえしをおこなうことで会話が推移していくのだそうです。



◆視線を理解することで、子どもは育つ、社会に出る / 養育者のケアも大切

この本では、発達心理学的にも、「共視」や子どもとおとなの視線についての分析がされています。
それによると、
子どもは他者の目をただ“見る”段階から出発し、一定の時間を経て徐々に、視線の先にある対象を“察し”、そして、やがてその裏に隠された意図・欲求・信念といった、さまざまな心の状態を“読む”段階へと移行していくものと考えられる。
ま さに子どもは、こうした一連の視線理解の発達とともに、他者との広く深いコミュニケーション・ネットワークに参入し得るようになるのであり、また、他者が 視線に込めたさまざまな情報を活用することで、社会的・物理的世界に関する知識をじつに効率よく拡張していくことが可能になるのである (p94)
ということなのだそうです。

そして子どもの視線理解の発達は、
子 どもと同一の対象に注意を注ぐ他者の存在なくしてはいかなる意味でも成り立ち得ないものである。さらに言えば、子どもの視線を敏感に察知し、それに沿った 適切な情報をその表情や発声(さらに子どもの発達が進めば言語)などを介して能動的に伝達しようとする養育者等の存在があってはじめて成り立つ部分が少な くはない (p110)
といいます。

子どもは、共に何かを眺めることを通じて、
他人とコミュニケーションすることを学んでいき、
自分の外にある世界を理解していく。
そしてそうした子どもの成長には、
子どもと共に眺める大人の存在が大切なのですね。



◆欧米の母と日本の母 情報 vs 感情 / 親のレベルから発する vs 子どものレベルに合わす

母子共視像に関連して、日本と欧米とにおける、
母と子とのコミュニケーションの違いにも話がおよびます。

ある研究では
日 本の母親が、欧米圏の母親に比して情報(information)よりも感情(affect)に焦点化したコミュニケーションをおこないやすいこと、ま た、文法的に正確な発話をすることが少なく、無意味な音声、擬態語や擬声語、歌といったもので反応することが多いこと (p119)
がわかったそうです。そして、
欧 米圏の母親があくまでも母親自身のレベルで言語および情動等の表出をおこない、情報付与中心の交流をおこなおうとしやすいのに対して、日本の母親は、子ど もの欲求に子どものレベルで応じようとする傾向が強く、また感情共有中心の交流をおこなおうとしやすいこと (p120)
といいます。また、具体的な習慣の話で興味深かったのは、



◆「おんぶ」は、欧米にない文化

ということです。私は寡聞にして知らず、びっくりしたのですが、
欧米にはおんぶの文化はなく、日本/アジア圏等に特徴的な文化なのだそうです。

「おんぶ」するとき、母親と乳幼児は向き合うことなく、
同じ方向を並んで見ることになりますが、
こうした幼児期の母子の関係のあり方に関する経験が
「文化的遺伝子」のように受け継がれているのかもしれない、といいます。

(ただし、現代の日本の絵画を見ると、
 明治期以前に比べて「おんぶ」を描いたものは激減しているそうで、
 そうしたところにも欧米文化の流入の影響があるとか・・・)

個人個人では自覚してはいないかもしれないけれど、
この「おんぶ」のようなモードに、日本人は文化的に慣らされている。
だから共視のような現象が大きな意味を持ってくるのだそうです。



◆アイデンティティのとらえ方 欧米は「他とどう違うか?」 日本は「他とどういう関係か?」

話は、自己観(自分とは何者なのか)といテーマにも及んでいます。

ある研究では、
欧米では「相互『独立的』自己観」を持つ人々が多く、
他方、日本をはじめとして東アジアでは「相互『協調的』自己観」を持つ人が多い
と指摘されているそうです。

前者は、「自己を、他の人や周りのものごととは区別された独立した存在である」ととらえる観方。
こ うした自己観の持ち主は、自分が何者かを説明するときも、周囲の人びとやものごととは切り離して、「頭の良さ」とか「まじめさ」のような自分の能力や性格 によって説明しようとする。そして、互いの個性、権利、尊厳を認め合おうとするのが対人関係のベースとなり、互いの価値観や好みに違いがあることを前提に 人間関係を考える。お互いに違う人間なのだから、その違いを乗り越えて協力するためにコミュニケーションがあるということになる。(p164)
他方、後者は、自分が何者であるかを考えるとき、
「自己とは他の人や周りのものごとがあってこそはじめて存在する」とみる観方です。
こ うした自己観の持ち主は他者の存在を重要な手がかりにして自己をとらえる傾向を持つ。そして、物理的には異なる存在である「私」と「あなた」ではあって も、精神的には通じ合える、心はひとつになれるという前提で人間関係をとらえがちである。 ~略~ 相手の気持ちを推しはかりながら、自分はどのように振 る舞うべきかに心を砕くことを美徳とする日本人どうしは、自分と相手の間に、いわば「共有自己」とでも呼べるものを想定しながら、コミュニケーションを 図っているといえそうである。 (p164)
これらの議論は、
他者と共にもつ「共有自己」を想定し、それを「共視」することによって、
自己とは何者かをとらえようとするところに日本人らしさがあるのだ
という視点の存在に気づかせてくれる、といいます。

論理自体はどこかで一度は聞いたことがあるようなものかもしれませんが
浮世絵に描かれた共視母子像という具体物から、このように読み解いていくのは面白いですね。



◆「あいまいな関係性」からアイデンティティを創り、コミュニケーションを創る

浮世絵に描かれた共視母子像は、
描かれた場面からしても、構図からしても、
また浮世絵という手法そのものからしても、
きわめて“あいまい”(何を何故どのようにしているのかが不明瞭)
なものであるそうです。

欧米由来の伝統的な発達心理学では、
子-親-対象物という三つの関係は、主に
乳児のなかにあるあいまいさを、
養育者が然るべき情報を付与することで明確化する
という観点から考えられてきたといいます。

しかし、日本という文化状況においては、
むしろそうしたあいまいさをあいまいなまま楽しみ、
遊ぶということが比較的多いのかもしれないといいます。
す べて曖昧なままに、その意味では、お互いの思いこみ、あるいは幻想の上に、人間関係を築き、信頼関係を認め合う日常のあり方、あるいは、曖昧で多義的な情 報を提供し、相手に解釈の自由度を与え、相手に意のくみ取りあるいは情の読み取りを期待するという私たちのコミュニケーションのあり方 (p156)
が、日本文化のコミュニケーションの特徴であり、
それが母子のコミュニケーションにもあらわれていて、
水墨画の余白や俳句、枯山水など
多義性を含むが故に、あるいは情報が足りない故に、より豊かな世界が現れることを期待する発想は、我が国のさまざまな領域の文化のなかに形を変えて現れ、 (p156)
わたしたちのものの見方や行動に影響を及ぼしていくということなのだそうです。



◆進化で異例の「ヒトの目」 / コミュニケーションの原義は「共通のもの」を創り出すこと

動物の中で、ヒトだけはきわめて特異な「目」を持っているそうです。
白目が大きく露出し、しかも他の動物のように色がついていないため、
白目と黒目の境が容易に判別できてしまう。
このため、相手から視線方向を容易に読みとられてしまうことになります。
つまり、ヒトは進化の過程のなかで
捕食者から容易に視線方向を読みとられ、襲われる危険を犯してまでも、
仲間の視線を読み、仲間に視線を読ませるコミュニケーションを選んだということです。

コ ミュニケーションの原点にたちかえってみよう。コミュニケーションとは「情報」を「伝達」することだろうか。そのとらえかたは、通信やコンピューター・メ タファーによりかかりすぎていないだろうか。コミュニケーションとは、もともとは「共通の(コモン)」という意味をもつラテン語からきている。人と人との コミュニケーションは、人と人とのあいだに「共通のもの」をつくりだす共同化の営みである。「共に見ること語ること」は、その根幹をかたちづくる行為であ ろう。(p74)



以上、なんだか物凄い量になってしまいましたが、
気になったところをピックアップ/引用してみました。

正確に読めているかどうかはこころもとなく、
異なる論文から好きなところを適当につぎはぎしたりして
かなりざっくりまとめていますので、
興味を持たれた方は是非、もとの本をお読みいただければと思います。

新しい発見もいろいろあって刺激的でしたが、こういう本を読むことで
ふだんなんとなく感じているけれどしっかりつきつめて考えていないことや
観察やインタビューでなんとなくわかっているけれど言葉にしていないことを
考えるヒントができて、そういう点からも本を読むのは大事だなあ・・・と反省しました。

モチベーション・メーカーでは「モチベーション読書会」なる企画で
モチベーションや教育に関する本や論文を「共読」していくことも画策中ですので、
興味のある方は是非ご連絡ください。

それでは、また。
長文にお付き合いいただきありがとうございました。

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